創業から5つ目の元号を迎えます

今日は平成最後の日。明日から元号は令和となります。
改元にあたり、明治三十七年の創業から5つ目の元号を迎える青山花茂本店の歴史を振り返ってみました。

【明治】
明治三十七年、日露戦争が始まった年に、北野茂吉が箱車を使って生花商をはじめたのが、青山花茂の創業にあたります。

社内に残る古い書物によると、

「翌明治三十八年、日本はロシアに勝って、戦争が終わった。(中略)日露戦争の戦死者を弔う仏前の供花が各所で売れたのだ。茂吉は毎朝、箱車に生花を積んで外あきないに出かけた」とあります。

北野茂吉と妻つや

青山花茂の店舗ができたのは、明治42年。曰く、

「茂吉は、朝早くから夜おそくまで働いた。花を売る職人、それが茂吉の信念であり、働くことだけが趣味でもあった。(中略)そして、明治四十二年、北野茂吉は、ようやく店らしいものを、青山善光寺の門前に持つことができた」とのこと。

明治四十年頃(箱車)

その後、大正年間を通じて、この店が青山花茂の拠点となりました。

【大正】
大正に入り、事業を担うようになった2代目の北野豊太郎は、非常に意欲的に商売に取り組みます。「大正五、六年頃、東京でようやく電話がひかれはじめた。架設料だけで三百円の電話は、1日の売上が1円にも満たない小さな花屋にはひけるものではなかった。しかし、豊太郎は、必ず電話は普及すると見通し、商人には絶対欠かせない武器だと思った。しかも、その頃電話の入っている家は大きなお屋敷ばかりだ。」

豊太郎は電話のほか、売り出されたばかりの自転車や、地下足袋に変わる長靴など、新しいものを進んで取り入れ、箱車だけの「青山花茂本店」の営業形態を、次第に変えていきました。

大正15年のカタログ

【昭和】
昭和の大戦前は、いけばな小原流様との取引も拡大し、職業意識に目覚めた東京の花屋の代表格として、青山花茂本店は大きく成長していきました。

右側が北野豊太郎

しかし、戦争が激しくなるにつれて、社員を一人、また一人と戦場に取られたり、疎開させたりし、終戦の1年前には、豊太郎が仕入・制作・配達まで、すべて一人で行っていたようです。

昭和十九年五月の大空襲で店舗を失い、事業規模を大きく縮小させたようですが、終戦から1年経った頃には新店舗が完成しています。

戦後、青山花茂本店の再興を牽引したのは3代目の北野太郎でした。各地での農場経営や資本提携をはじめ、八丈島や沖縄、オーストラリアやハワイなどに積極的に訪問し、その頃には珍しかった花々を次々と日本に紹介していきました。

右側が北野太郎

昭和三十年代後半からは、フラワーギフトの全国発送をはじめ、フラワーデザインスクールや、いけばな教室を設置するなど、様々な事業を展開していきました。

フラワーデザイン教室のようす

【平成】
平成の時代は、4代目の北野晃司が中心となり、青山花茂本店の事業を維持・成長させてきました。
少しずつお稽古の生徒さんが減少するいけばな事業の伝統を守る一方で、フラワーギフト事業を大きく伸ばしたのがこの時代です。昭和の終わりから平成にかけてのフラワーギフト需要の高まりを背景に、さらに高いクオリティを求め、ブランド価値を引き上げてきました。
今では多くのお客さまにご利用いただいているオンラインショップでの販売も開始しました。

現在まで115年、明治・大正・昭和・平成と、4つの時代に渡って事業を存続させ続けることができたのも、品質に強いこだわりを持ち、お客さまのご要望に寄り添い続けた結果だと思っております。

令和の時代も、時々のニーズに順応しながら、お客さまへ「本物の花体験」をご提供し続けられるよう、社員一同努力してまいります。