青山花茂と母の日の歴史

母の日まであと1ヶ月を切り、日々ご注文をたくさんいただいています。
皆さまの、お母さまを想う心に、私たちも心が温まります。
今回は、114年の歴史の中で青山花茂が接してきた「母の日」を辿ってみたいと思います。

■戦前は稀少だったカーネーション
母の日の由来は有名ですが、日本に「母の日」が伝わったのは、1920年頃の大正時代といわれます。

アメリカで発祥した、お母さんにカーネーションの花を贈るという習慣は、人々の誰もが抱く母への感謝の思いに共鳴しやすく、世界各国へと伝わりました。日本社会へも抵抗なく受け入れられ、欧米文化への憧れの気持ちとも自然に相まって、ハイカラなライフスタイルの一つとなりました。当時は希少だったカーネーションの花を母の日に、という習慣が都市を中心に少しずつ広まっていったようです。

大正時代の青山花茂の店舗

青山花茂の現社長の母、三代目のおかみさんに、母の日について聞いてみました。
今でもとても元気な90歳。
「私が小さかった頃は母の日なんてあまり言わなかったわ。物心つく頃は戦争が激しくなって、母の日どころじゃなかった。」と話します。1948年に青山花茂本店の先代の社長と結婚し、花屋のおかみさんに。

「昔は、ちょうど母の日に合うようにカーネーションを開花させるのは大変だったのよ。ハウス栽培じゃないんだから。」と懐かしそうに話は続きます。

「花が咲くちょっと前に切らなきゃならないし、その直前に雨なんて降ったらダメになっちゃうのよ。」と。花は露地栽培が一般的で、現在よりずっと気候変動に左右されていた生産の苦心がリアルに伝わってきました。

■3色しかなかったカーネーション
戦後社会情勢が次第に落ち着き、経済発展が著しくなりはじめた1950年代後半頃から幼児・学校教育の通年行事でも取り扱われるようになり、急速にポピュラーになった母の日。
新聞やテレビでも「母の日のカーネーションを売る花屋」などと話題になりはじめたのはこの頃です。
それでも、カーネーションは現在よりかなり小ぶりで、花色も赤、ピンク、白の三色だけ。花束にして赤いリボンなどを付け、店頭で販売していたそうです。

1950年代、青山花茂の店頭でカーネーションの花束を持つ少女(当時の新聞記事より)

花キューピットで全国へお届け
1970年頃から、現在の花キューピットの前身の日本生花通信配達協会の活動が活発になり、全国各地の生花店相互の「花のお届けの通信網」が定着しました。それにより、”東京の花屋で注文し、地元の花屋から故郷のお母さんに母の日の花が届く”ことが可能になりました。このシステムは皆さまに大変喜んでいただき、1985年頃にはすっかり定着しました。

青山花茂の昔の店内

当時の母の日の直前の時期には、青山花茂でも多くの電話や店頭でのご注文を、それぞれ各地の生花店へ伝達する作業に追われたそうです。

■多様なカーネーションを使ったお品物を、宅配便で全国に
年々生花の品種改良が進み、栽培の技術も飛躍的に進歩して、カーネーションも多種多様な花色や咲き方のものが生産されています。母の日にはカーネーションのみならず、お母さまやおばあさまのお好きな花や、ハイシーズンの花を贈りたいなど、お客さまのニーズもさまざまに。そして、2000年頃には宅配便の発展により、鮮度維持のデリケートな生花を一昼夜で各地へお届けできるようになりました。

赤の大輪カーネーションを25本束ねた花束<グランルージュ>

時代は移っても、お母さま、おばあさまを思う感謝の気持ちは変わりません。
青山花茂は、いつの時代も最善の花をご用意してきた歴史を大切に、今年も最高品質の母の日フラワーギフトをお作りします。

毎年新しくデザインをご用意し、スタッフ全員が1点ずつ大切にお作りして、5/10(木)~13(日)の間にお届けします。数に限りがあるものも多く、既に完売となりそうなものも。どうぞお早めにご予約ください。

オンラインショップでの母の日ギフトのご注文はこちらから。
https://www.aoyamahanamohonten.jp/f/mothersday-gift


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